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心斎橋北商店街へようこそ
大阪の街創り
大阪の中心部心斎橋辺りは昔海だったところで、繰り返された河川の氾濫により次第に土壌が堆積され、池や沼などが点在する湿地帯となりました。
その後江戸時代初期には堀が開削され、その土壌を利用して湿地帯を埋めて現在に近い街が形成されていきました。
心斎橋筋の賑わい
江戸時代の心斎橋筋は堀江新町の待合・料亭街と道頓堀の芝居街を結ぶ「通い道」として発展しました。
当初は心斎橋の北側が栄え、南へと移っていきました。
心斎橋の南側には「大丸」や「十合」を代表する呉服商が沢山ならんで賑やかな通りとなっていきました。
南船場界隈は庶民的な街となり、順慶町は小売商店街として当時から 知られておりました。
心斎橋
江戸時代の大阪では八百八橋と言われたように橋の多い街として知られていますが、実際には 百数十の橋が有り、その内江戸幕府が管理する「公儀橋」が12橋で、その他は全て「町橋」であり 町々の力によって建造され維持管理もしておりました。
「心斎橋」も「町橋」の一つで有力な商人たちが率先して事業を推進してきました。
元和8年(1622)
最初の心斎橋は木造で、美濃屋岡田心斎によって架けられたというのが有力な説です。
長さ18間(約35m) 幅2間半(約4m)
明治6年(1893)
ドイツから輸入された弓形のボーストリングトラスが用いられました。橋脚を設けない橋となりました。
長さ約35m
現在は鶴見緑地公園内に「すずかけ橋」として再利用されています。
明治42年(1909)
市電軌道の敷設の際、石造アーチ橋に架け替えられました。
昭和39年(1964)
長堀川の埋め立てにより、陸橋化されました。
石橋の心斎橋のイメージを残した趣のある橋と姿を変えました。
現在の賑わい
現在の心斎橋筋は長堀通を挟んで南北に賑わう、大阪を代表するアーケード商店街になりました。「心斎橋」は、平成9年(1997)地下ショッピングモール「クリスタ長堀」の完成により橋としての形はなくなってしまいましたが、石橋当時の石材を利用したモニュメントとして残っています。